美智子さま物語のネタバレ感想!結末ラストの展開まとめ

2019年4月30日放送の特番「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ 知られざる皇室10の物語」。

その番組内でオリジナルドラマとして、「プリンセス美智子さま物語 知られざる愛と苦悩の軌跡」が放送されます。

 

世紀のご成婚と美智子さまがこれまで歩まれてきた道のりを、東宮女官長の目線でドラマ化した「美智子さま物語」。

そんな「美智子さま物語」のネタバレと感想についてまとめています。

 

  • 4月30日放送の特番「令和につなぐテレビ」を見逃してしまった
  • 「美智子さま物語」のストーリーをもう一度見たい

そんな人はぜひ参考にしてみてください。

 

以下の書籍をあわせてご覧いただくと、これまでの美智子さまの歩みがより分かりやすいですよ。

 

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美智子さま物語の出演者・キャスト

2019年4月30日の「令和をつなぐテレビ」で放送されるドラマ「美智子さま物語」。

そのドラマ内の出演者キャストについてまとめています。

 

永作博美

東宮女官長・浜村時子 役

浜村は旧華族夫人で、皇太子妃に仕える女官のトップ・東宮女官長に任命され、美智子さまの身の回りのお世話からお妃教育を担当することになる。

突然のことに戸惑いながら、伝統を重んじる立場から、”新しい皇室”を模索される美智子さまに、皇室のしきたりを厳しく指導する。

しかし、美智子さまに最も近くでお仕えするうちに、そのお人柄やご努力を目の当たりにし、次第に美智子さまへの思いを変えていく。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」公式サイト

 

上白石萌音

週刊誌記者・宮本ひろ子 役

今から約60年前、当時皇太子だった天皇陛下のお妃選びの取材合戦の渦中にいる駆け出しの週刊誌記者。

ひろ子は、熱心に取材を続けるうちに美智子さまにひかれ、そして美智子さまに対する心ない批判に憤慨しながら取材を進めていく。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」公式サイト

 

和田正人

週刊誌記者・森富之 役

ひろ子の先輩記者である森はベテラン週刊誌記者で、ひろ子に取材のいろはから厳しく取材する。

そして、ひろ子とともに皇太子さまのお妃選びの取材を続け、スクープを狙う。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」

 

若村麻由美

華族会の重鎮・藤永菊子 役

藤永は東宮職参与。

天皇家ともゆかりのある家柄で、民間出身の美智子さまにつねに批判的な目を向け、教育係の浜村にも厳しく注文をつける。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」公式サイト

 

草笛光子

ノンフィクション作家・宮本ひろ子 役

約60年経ち、週刊誌記者からノンフィクション作家となったひろ子は、平成の今も精力的に取材活動に取り組んでいる。

そして、美智子さまの知られざる”秘蔵ノート”に出会う。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」公式サイト

 

町田啓太

ひろ子の担当編集者・後藤成治 役

ノンフィクション作家となったひろ子の担当編集者。

引用:「平成の”大晦日” 令和につなぐテレビ」公式サイト

 

美智子さま物語の相関図

美智子さま物語の主要人物の相関図をまとめています。

それぞれの出演者たちの関係性を確認する際に、ご活用ください。

 

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美智子さま物語のネタバレ・感想

2019年4月30日放送のオリジナルドラマ「美智子さま物語 知られざる愛と苦悩の軌跡」のネタバレと感想についてまとめています。

当日の「美智子さま物語」を見逃してしまったという人は、こちらを参考にしてみてください。

 

「美智子さま物語」は、美智子さまが自身のお気持ちをつづった貴重なノートの中身を参考に構成されています。

 

 

 

ノンフィクション作家・宮本ひろ子は、とある蔵の中にしまわれていたノートを発見することから物語は始まる。

 

昭和38年、美智子さまは一切のご公務を4か月ほど休まれ、マスコミの取材も受けず御用邸に閉じこもられた。

美智子さまの精神的なご心労と報道されていた。

一体なにが美智子さまをそこまで追い詰め、どんなことをお考えになっていたのか。

それがすべてノートにつづられていた。

 

当時美智子さまは苦しい胸の内をノートにつづられていた。

美智子さまと親しかった人物が、記録のために一字一句もらさず書き写したノートをもとにドラマが構成されている。

 

 

今からおよそ60年前、昭和33年春。

世間は皇太子・明仁さまのお妃選びに注目していた。

スクープを狙うマスコミは候補者探しにやっきになっていた。

 

皇室入りは窮屈な慣習にとらわれ、旧華族といえども娘を皇室入りさせるのに反対する親も多い。

一方で、民間人を皇室に迎え入れる準備も極秘に進めていた。

しかし、民間の人をお妃に迎え入れた例は未だかつてない。

 

皇太子さまはテニストーナメントで対戦された美智子さまに良い印象を持ち、友人として親交を深めておられた。

美智子さまのお父様は日本有数の大企業の経営者であり、一族すべて第一級の人物ばかり。

皇太子さまは美智子さまをお妃選びの候補者として希望を出された。

聡明で謙虚なお人柄もお妃として申し分ないと、美智子さまを最有力候補となった。

そして、陛下・皇后さまから民間の方を最有力候補とするお許しを得ることに。

 

しかし、実際は昭和天皇の侍従・入江相政の日記には以下のように記されていた。

東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで、皇后さまが勢津君様と喜久君様を招んでお訴へになった由

「入江相政日記」より

 

皇太子のお妃は、旧皇族や華族でなければならないというのは古い考えだと、ひろ子は語る。

そのとき、皇太子の教育係である小泉信三が現れた。

週刊誌記者のひろ子と森は、お妃候補を特定するため小泉の後を追う。

 

小泉が向かった先は、美智子さまのお屋敷。

美智子さまをお妃に迎え入れるため、美智子さまとご両親に話をつけに向かったのだ。

昭仁さまは、その後も何度も美智子さまに連絡をとり続けた。

 

問題はマスコミ。

これが報道されてしまえば、実るものも実らなくなってしまう。

しかし、マスコミはすでに美智子さまがお妃候補であると嗅ぎつけていた。

 

そこへ、小泉自らがマスコミへ向かう。

「皇太子妃に関する報道の一切をお控えいただくことを願いたい」と。

しかし、マスコミも必死につかんだスクープだ。

それでも小泉は無理を承知で頭を下げた。

 

当時の美智子さまはずっとご成婚を固辞されていた。

「皇太子としての役割を果たすためには自分を支えてくれる人が必要である」と、皇太子さまは根気強く美智子さまに説明された。

 

皇太子さまは3歳3か月で親元を離され、帝王学を学ぶため専門の傅育官という教育係の元で育てられたのだった。

美智子さまは、皇太子さまの家庭のあたたかさを知らずに育った孤独な少年時代の話を聞いた。

そして、こう思われた。

御家庭なしに今まで遊ばしていらした東宮さま(皇太子さま)のいろいろなお話、そしてこんなにも家庭がお欲しかったということをうかがいますと、本当にうかがった時だけでなく、一人で思い出す時も、いつも涙が出て仕方ございません。

美智子さまの思いがつづられたノート」より

「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」とお話下さった時、私は今までの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、このように寂しい言葉はなかったと思いました。

そしてその中を25年間もお歩きになっていらした東宮さまのために、乏しい力の全部をあげて、温かいホームを作ろうと決心をいたしました。

美智子さまの思いがつづられたノート」より

 

お妃は民間の方に決定したと藤永に伝える。

 

昭和33年11月27日。昭仁さまと美智子さまのご成婚が発表される。

民間から皇室入りをするというのは、異例中の異例のこと。

旧皇族の中にも、民間人が皇室入りすることをよく思わない人物はいた。

梨本宮伊都子妃もその一人である。

もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。

日本ももうだめだと考へた。

「梨本宮伊都子妃の日記」より

 

ご婚約発表時に美智子さまの付けられていたグローブは短く、各所から批判の電話があったという。

支度の際に長いグローブが見つからず、宮内庁に頼んだもの。

ところが、なぜか短いグローブが届けられていたのだ。

 

しかし、多くの国民が一民間がお妃になるというシンデレラストーリーに熱狂。

ご成婚にあやかろうと、ミッチー・ブームで街の結婚式場は繁盛をきわめた。

美智子さまルックのホステスを揃えたキャバレーも登場。

さらに、ご愛用のカチューシャは飛ぶように売れ、和服にヘアバンドを合わせるファッションは「日本調プリンセスルック」ともてはやされた。

 

浜村が、東宮女官長として美智子さまの教育係に任命される。

ご成婚の3か月前にお妃教育が開始された。

お妃教育とは

皇室に嫁ぐ女性のための特別な講義。月曜から土曜まで毎日2科目。

 

しかし、とある日、美智子さまは倒れられた。

連日のご心労が重なったのでしょう。

 

「伝統と進歩」というむづかしい課題の前でいつも私はひきとめられ、立ちどまって考えてしまいます。

ただ現在の私がすがるように持っている気持ちは、宮中の中に、必ず必ず、長い時代を綿々と流れてきた、美しい、貴い精神が、伝統としてきっとおありになるに違いないということ。

そしてたとえ私の身に皇族らしさとか、皇族らしい動作がなかなかそぐわぬことがあっても、この伝統だけは、どんな長い間かかっても、必ず自分も学び消化し、自分の血肉とせねばいけないという、それだけでございます。

「美智子さまの思いがつづられたノート」より

 

皇室に代々伝わるお品物を譲られる一方、皇后さまの心中は複雑だった。

皇后さまが今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおつしやつたとのこと。

「入江相政日記」より

 

また、徐々に周囲の風当たりは強くなっていく。

 

ご成約も無事にお済みになり、皇太子妃としての生活が始まる。

美智子さまの新しい生活とは、常に他人の目にさらされているものだった。

 

ある記事がアメリカの雑誌に掲載された。

最近ある上流階級の晩餐会で裕福な実業家である美智子の父親が気まずい沈黙の中で座っていた。

そばにいた華族たちが彼の頭越しに”戦後のにわか成金”が幅をきかせるとは嘆かわしい世の中になりましたなと大声で話し合っていたからだ。

アメリカ「タイム」誌より

女官たちは、美智子はいつまでもよそ者扱いされるでしょうと言い切る。

アメリカ「タイム」誌より

 

日本国内でも美智子さまの置かれた厳しい状況が報道され始めていた。

 

静かに騒がれずに、一つの自分の席をつくりたい。

そしてその小さな座に一度スッポリと自分を座らせなければいけないと思います。

憎しみに囲まれて何かをしようとしても、くづれくづれる砂山を足場にするように、何一つ実るものはございませんでしょう。

これは、どんな「家」をとってみても、「職場」、「社会」をとってみても言えることではないかと思います。

「美智子さまの思いがつづられたノート」より

 

しかし、美智子さまにとって思いがけない吉報が入る。

美智子さまの妊娠である。

さらに、美智子さまは母子手帳の交付を希望されたのだ。これは皇室史上初のこと。

生まれてくるお子様のために、美智子さまは普通のお母さんが当たり前にやることをきちんとおやりになりたかったのでしょう。

 

美智子さまと皇太子さまは2人で話されて、新しい子育て方法をおやりになられるとのこと。

  • 乳人を辞めること
  • 傅郁官制度を辞めること

 

乳人制度とは

母親に代わって乳を与える乳母が従事

 

しかし、これまでの伝統を壊すというのは批判も増えていく。

このときの美智子さまのお気持ちは以下のようにノートに記されていた。

赤ちゃんだけはどうかして自分で育てたい。<中略>

本当に私はさしあたって、赤ちゃんのことが気になって気になってたまりません。

手元で育てさせて頂くとすれば、それは、もう、皇后陛下の遊ばした時と違う形をとることになってしまいますし、それから乳人の問題も別に誰にも言わずに、黙って私がお乳をあげて育ててしまうなどということは出来ないのでしょうか。

そういたしましたら誰もそれをとりたてて言う人もおりませんし、黙って目立たずにすれば。ずいぶん波立ちが違いましょう。<中略>

それが夢のようなことならば、せめて新聞の方たちだけにでも伏せておけないことでございましょうか。

「美智子さまの思いがつづられたノート」より

 

これまで天皇家の出産は御所で行われていた。

それは天皇家初となる病院での出産。お子様は、浩宮徳仁と名付けられた。

 

美智子さまは折々の心情を和歌に込められている。

あづかれる 宝にも似て あるときは 吾子ながら かひな畏れつつ抱く

~天から授かった宝物のような思いで、時として我が子ながら敬虔な気持ちで抱きしめることがあります~

 

美智子さまはご出産から2か月で復帰。

浩宮徳仁さまの授乳はご公務の合間をぬってされたり、ご公務でお疲れでもお料理をなさったり。

ご公務の際には、ご訪問先の国や地域のお勉強もされている。

それが公務と育児の後。深夜にも及ぶこともあったとか。

 

ご成婚から1年が過ぎた頃、美智子さまは複雑な心境を吐露された。

難しいと思うことはたくさんあります。

いつになったら慣れたという状態になれるかということは、ちょっと見当もつきません。

1年と少しでやっと安定した家庭生活というものへのめどはついたように思いますけれども、もっと広い環境の中で自分を安定させて充実させていくためにはまだまだ長い年月がいるのではないかと思います。

 

美智子さまのお人柄やご努力を目の当たりにし、東宮女官長の浜村の美智子さまへの思いに変化が見られ始める。

 

昭和35年。皇太子ご夫妻は日米修好100周年を記念して米国へ。

期間は10日。浩宮徳仁さまが生後7か月のときである。

両殿下は浩宮さまにご養育係をおつけになられた。

 

両殿下のアメリカ訪問にあたって、美智子さまから浩宮さまの育児ノートを預かる。

  • 1日に1回くらいはしっかり抱いてあげてください。愛情を示すためです。
  • お昼寝のベッドに入る前には、ブラウスの一番上のボタンをはずしてあげてください。
  • 自分が投げた物はなるべく自分で取りに行かせるように。軽く背中を押して「取ってきてちょうだい」と言ってください。

これが後に「徳ちゃん憲法」と呼ばれ、一世を風靡した育児法である。

 

美智子さまはこの頃、ひどく痩せられていた。

それは隠された苦悩の日々を物語っているようである。

 

私たちはどうしても、”家庭”を持たなくてはいけないと思います。

そしてその家庭は、家族が愛し合うということにおいてだけは、きっとどんなに幸福であってもいけなくはないのです。

それは皇室のような立場が理想の型に近づくほど、恐らくはより象徴的な性格を帯び、そして象徴的であるということは、個人においても、また、その家庭においても、そうあらねばならないのではないでしょうか。

「美智子さまの恋文」より

 

昭和38年3月。

ご健康のすぐれなかった美智子さまはご妊娠のお喜びも束の間で、宮内庁病院にご入院。

流産の処置をとられました。

 

美智子さまは一切のご公務をやめ、東京を離れて静養に入られた。

美智子さまの心労は限界に達していた。

このとき知人に宛てた手紙からは、その事実がうかがえる。

今すぐにもお会いしたい気持ちでございますが、やはりわがままをお許しいただいて、今しばらく一人だけの世界に沈ませていただきます。

それに心身ともに弱っておりますと、何をお話し申し上げてしまいますか、それが心配なのでございます。

六号の大きさに白いバラを描いてみましたが、見つめるほどに白の中にただようさまざまな色の影にひかれ、ぼんやり眺めている時間ばかり長く、いくらも花の姿を写しませぬうちに、大きく花びらを開かせてしまいました。

 

美智子さまの思いがつづられたノートには、天秤のような図が描かれていた。

天秤の図の片方には、「私の背中が負える荷物の目方」。

もう一つには、「妻・母・皇太子妃」。そして、「この3つが基本的に満たされること」「これを押しつぶしてしまわない重さ」と記されている。

 

美智子さまが静養に入られて1ヶ月半が経った週末。

皇太子さまは3歳になった浩宮さまとともに美智子さまの元へ訪れた。

 

皇太子さま、そして浩宮さまの幼い太陽のような笑顔が、美智子さまのこわばっていた心を溶かしていった。

美智子さまを救ったのは家族の愛だった。

やがて時間をかけて、美智子さまは回復していく。

 

公務に復帰された美智子さまは、より精力的に各地を訪問された。

浩宮さまのご誕生から5年後、弟君の礼宮文仁さまがお生まれになった。

流産を乗り越えてのご出産に、日本中が歓喜に包まれた。

 

その前年、皇太子さまの弟君・義宮さまがご結婚。

お妃は旧華族の華子さまだった。

 

週刊誌ではでたらめな記事が出回る。

浜村は「自分が東宮女官長を辞めれば、このような記事は書かれなくなる」と考え座を譲ると決意した。

しかし、美智子さまから「あと2年はそばにいてほしい」と頼まれ、女官長を続けることに。

 

この8年、美智子さまは懸命にご努力を尽くし、たったお一人でご奮闘なされた。

その姿を誰よりも近くで見てきた浜村。

「美智子さまはもはや立派な皇太子妃であらせられます。そして、将来のこの国の皇后陛下であらせられます」と藤永に告げる。

 

そして浜村女官長が美智子さまと約束した2年が経った。

「このお手紙は将来の宝として大切にいたしたく存じます」。

 

6年前に浜村に宛てた美智子さまの手紙。

週末ごとに拾い集めました貝、ご覧くださいませ。

もう人でも多く、多勢の足が踏んでいったはずの砂の中に、驚く程どこまでも傷のないサクラ貝がございましたり。

貝集めは楽しい遊びでございます。

そこには美智子さまが拾い集めた綺麗な貝がらが同封されていた。

 

成婚以来、美智子さまは皇后・良子さまを実の母のように慕い尽くされた。

そのお気持ちは後年も変わることはなかった。

 

元号は「昭和」から「平成」へ。

皇太子さまは第125代天皇に即位され、美智子さまは皇后となられた。

 

平成31年1月。ひろ子は浜村の家に訪れていた。

浜村は即位されて間もなくに亡くなり、今でも美智子さまから頂いた手紙と貝がらは大切に保管されていた。

 

陛下と美智子さまはいくたにも試練を乗り越え、新たな皇室像を追い求められ続けた。

人々に寄り添い、希望を与えるそのお姿はいつしか新しい時代の象徴となったのです。

 

およそ60年前、美智子さまはこんな思いをつづられていた。

いつしか自分に子供が出来、学校に行って”お父さまの職業”などということをクラスで話し合うようなことがありましたとして、なんと言って説明したらよろしいのでしょう、など、ぼんやり考えておりました。<中略>

そしてそのお仕事は、社会の出来るだけすみずみの陽の当たらぬ場所も知り、この日本という国のいまのありさま、また、そこに起こるさまざまな出来事について皆と心をあわせて喜び、悲しみ、そして励ましていくという、大切なお役目なのだということを話さなくてはと考えました。<中略>

昔の人たちは皆頭を下げ皇族方をお迎えしておりましたが、これからは私たちはお互いに目を見交わしてまいりますでしょう。

「美智子さまの恋文」より

 

多くの人々がお二人のたゆまぬ努力によって励まされ、そして救われてきました。

多勢の足が踏んでいったはずの砂の中に、驚く程どこまでも傷のないサクラ貝がございました。

このサクラ貝のように美智子さまはどんな試練に見舞われようとも、輝きを失われることはなかったのです。

 

 

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